2013年1月9日水曜日

Blogger for iOSアプリからのテスト投稿を兼ねて近況報告

この投稿は、Blogger for iOSのテストのための投稿ですが、それだけで終わってしまうのもなんだか味気ないので近況報告を。

この「日刊 石川学」を最後に更新してから気がつけば約一年半が経過してしまいました。その間、色々なことがありました。と言いたいところなのですが、その実、驚くほど何もありませんでした。この一年半を振り返れば、仕事にとことん打ち込んでいました。おかげさまで昨年11月末日をもって、株式会社インプルーヴは第9期を無事に終えることができ、ただいま第10期をスタートしたところです。

仕事に打ち込んだ一年半、私自身に多少の変化はありました。真っ先に思いつく変化は、若くなくなってきたんだな、ということです。夜を徹しての作業ができなくなりました。眠いときの作業ではどんなに注意をはらっているつもりでもミスが目立つようになりました。また、ちょっと寝たくらいでは疲れが取れなくなりました。「35歳頃からガクッとくる」とよく言いますが、まさにそれを実感している毎日です。

2011年7月20日水曜日

「あきらめるな」

高校2年のときの担任は、転任してきたばかりの大河原先生だった。

高校生に限ったことではないが、生徒は先生にニックネームをつける。2年に進級して最初のホームルームが終わったとき、大河原先生のことを誰ともなく「おじいちゃん」と呼んだ。大柄で背筋はピンとしているものの、「骨と皮」という表現がピッタリなほどにガリガリで、頭髪は白く薄く、声はしわがれかすれ、歩く速度も遅く、なんだか足元がおぼつかない感じだったのだ。学生時代は野球に打ち込んでいたという話をしてくれたが、にわかに信じがたい風貌であった。大病を患い、大手術を乗り越えて、教育の現場に復帰した、ということも話してくれた。

大河原先生は担任であると同時に、英語の教科担当でもあった。「あきらめるな」と、口癖のように言っていた。

記憶が定かではないが、ある日の英語の授業で(おそらく初回の授業だったように思う)、指名をされたクラスの誰かが、「わかりません」と言うのが早いか着席してしまうのが早いかという態度であった。すると、大河原先生は「立て」と。続けざまに、そのしわがれた声だが大きな声で「あきらめるな」と言った。

「わかりません」に対して「あきらめるな」。微妙にかみ合っていないようなやりとりと、大河原先生の「あきらめるな」が、文字では表現しにくい独特のイントネーションであったため、クラスは笑いに包まれたものだった。

大河原先生が英語を担当した一年間、私も「わかりません」と言っては、何度「あきらめるな」と言われたかわからない。

この数ヶ月間(よりは長いかな)は、自分でいうのも気恥ずかしいが、本当によく働いたと思う。終わった今だから言えるが、7月に入ってからというもの、一体いつまでこんな状況が続くのか、もう投げ出してしまいたいと思ったことは一度や二度ではない。そんなとき、今までは思い出すこともなかった大河原先生の「あきらめるな」「石川、あきらめるな」という声が、やけに鮮明に、何度も思い出された。

大河原先生は、私が高校を卒業した年だったか、その翌年に亡くなった。今年の夏、お盆に帰省する際には、先生のお墓参りを初めてしようと思っている。

2011年1月23日日曜日

息子が映画を観て初めて泣いた日

週末になると千川駅の近くにあるTSUTAYAへ行って、旧作のDVDを借りるのがすっかり習慣化してきた。

妻が夕食の支度している間、DVDを視聴するのは、日中遊んで疲れた息子とともにのんびりと時間を過ごすのにちょうどよい。で、今日はWALL-E(ウォーリー)を借りてきた。

映画の内容は、ここでは割愛。

終盤、じっとストーリーに見入っていた息子が、急にちゃぶ台の下に潜りこんだ。

ちゃぶ台に潜ってしまうと、テレビの画面を見る事はできない。どうしたのだろうかと、ひょっとしたら急に具合でも悪くなったのかもしれないなと、不安混じりに息子の様子を見ていると、息子の背中がひくひくと動いている。

直後、ちゃぶ台から這いずり出たかと思うと、息子が泣いている。あるシーンのあまりの切なさに耐えられなくなってしまったのだ。

自分が死んでしまうことへの恐怖。大切な人との離別を想う寂しさ。その感情は、自分が何歳のときに訪れたのかすっかり忘れてしまったけれど、息子の確かな成長を実感せずにはいられなかった。