2011年7月20日水曜日

「あきらめるな」

高校2年のときの担任は、転任してきたばかりの大河原先生だった。

高校生に限ったことではないが、生徒は先生にニックネームをつける。2年に進級して最初のホームルームが終わったとき、大河原先生のことを誰ともなく「おじいちゃん」と呼んだ。大柄で背筋はピンとしているものの、「骨と皮」という表現がピッタリなほどにガリガリで、頭髪は白く薄く、声はしわがれかすれ、歩く速度も遅く、なんだか足元がおぼつかない感じだったのだ。学生時代は野球に打ち込んでいたという話をしてくれたが、にわかに信じがたい風貌であった。大病を患い、大手術を乗り越えて、教育の現場に復帰した、ということも話してくれた。

大河原先生は担任であると同時に、英語の教科担当でもあった。「あきらめるな」と、口癖のように言っていた。

記憶が定かではないが、ある日の英語の授業で(おそらく初回の授業だったように思う)、指名をされたクラスの誰かが、「わかりません」と言うのが早いか着席してしまうのが早いかという態度であった。すると、大河原先生は「立て」と。続けざまに、そのしわがれた声だが大きな声で「あきらめるな」と言った。

「わかりません」に対して「あきらめるな」。微妙にかみ合っていないようなやりとりと、大河原先生の「あきらめるな」が、文字では表現しにくい独特のイントネーションであったため、クラスは笑いに包まれたものだった。

大河原先生が英語を担当した一年間、私も「わかりません」と言っては、何度「あきらめるな」と言われたかわからない。

この数ヶ月間(よりは長いかな)は、自分でいうのも気恥ずかしいが、本当によく働いたと思う。終わった今だから言えるが、7月に入ってからというもの、一体いつまでこんな状況が続くのか、もう投げ出してしまいたいと思ったことは一度や二度ではない。そんなとき、今までは思い出すこともなかった大河原先生の「あきらめるな」「石川、あきらめるな」という声が、やけに鮮明に、何度も思い出された。

大河原先生は、私が高校を卒業した年だったか、その翌年に亡くなった。今年の夏、お盆に帰省する際には、先生のお墓参りを初めてしようと思っている。